活字中毒者の乱読日記 印象批判100%
これからの生き方は自分で考えよう:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』
マイケル・サンデル、鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』
(JUSTICE What's the Right Thing to Do? 2009.)
2010.5初版、2010.8第43刷、380p、2300-
第1章 正しいことをする
幸福、自由、美徳
パープルハート勲章にふさわしい戦傷とは?
企業救済への怒り
正義への三つのアプローチ
暴走する路面電車
アフガニスタンのヤギ飼い
道徳のジレンマ

第2章 最大幸福原理―功利主義
ジェレミー・ベンサムの功利主義
反論その1:個人の権利
反論その2:価値の共通通貨
ジョン・スチュアート・ミル

第3章 私は私のものか?―リバタリアニズム(自由至上主義)
最小国家 
自由市場の哲学
マイケル・ジョーダンの金
私は私のものか?

第4章 雇われ助っ人―市場と倫理
どちらが正しいのか―徴兵と傭兵
志願兵制の擁護論
金を貰っての妊婦
代理出産契約と正義
妊娠を外部委託(アウトソーシング)する

第5章 重要なのは動機―イマヌエル・カント
権利に関するカントの見方
最大幸福の問題点
自由とは何か
自由とは何か
人格と物
道徳的か否かを知りたければ動機を見よ
道徳の最高原理とはなにか
定言命法 対 仮言命法
道徳と自由
カントへの疑問
セックスと嘘と政治
平等をめぐる議論―ジョン・ロールズ
契約の道徳的限界
同意だけでは不十分な場合―ベースボールカードと水漏れするトイレ
同意が必須ではない場合―ヒュームの家とスクイジー・マン
利益か同意か? 自動車修理工サムの場合
完璧な契約を想像する
正義の二つの原理
道徳的恣意性の議論
平等主義の悪夢
道徳的功績を否定する
人生は不公平か

第7章 アファーマティブ・アクションをめぐる議論
テストの差を補正する
過去の過ちを補償する
多様性を促進する
人種優遇措置は権利を侵害するか
人種隔離と反ユダヤ的定員制限
白人のためのアファーマティブ・アクション
正義を道徳的功績から切り離すことは可能か?
大学の入学許可を競売にかけては?

第8章 誰が何に値するか? アリストテレス
正義、目的因(テロス)、名誉
目的論的思考:テニスコートとクマのプーさん
大学の目的(テロス)は何か?
政治の目的は何か?
政治に参加しなくても善い人になれるか
習うより慣れろ
政治と善良な生活
ケイシー・マーティンのゴルフカート

第9章 たがいに負うものは何か?―忠誠のジレンマ
謝罪と補償
先祖の罪を償うべきか
道徳的個人主義
行政府は道徳的に中立であるべきか
正義と自由
コミュニティの要求
物語る存在
同意を超越した責務
連帯と帰属
連帯は同族を優遇する偏見か?
忠誠は普遍的道徳原理に勝るか?
正義と善良な生活

第10章 正義と共通善
中立への切望
妊娠中絶と幹細胞をめぐる論争
同性婚
正義と善良な生活
共通善に基づく政治

謝辞
原注



よくできた内容だな、というのが第一印象。大学時代に、教養課程を叩き込まれた層には、なつかしく訴求するかもしれない。あのとき言われていたのはこういうことだったのか、と思わしめる部分はある。

ただ、ここで問われているのは、われわれが何を以てそれを「正義」と定義するかという問いであって、何が正義かという問いではない、ということは明確にされるべきではないのか。
戦略的にそれが明示されないのはフェアでないのではないのか。
内容としては西洋哲学の講義であり、それこそソクラテスからベンサムまで、それをかれら自身の著作から読むためのきっかけとして、これらの問題を掲げているのだろうことは理解できる。
それでもなお、本書に首肯しかねるのはなぜなのだろう。
大学という場所に学究への誇りと期待を持って入学したかれらを待っているこの問い。
それ自体は極めて学術的で、そして机上の議論である、が、しかし現実への そうだ、それが「justice」を大前提としているところだ。
すなわち「justice」とは何か、ということ。
justiceが時代や場所によって容易に変わり得るという話に進んでいくのだろう、
しかし、justiceという考え方それ自体が存在し得ない世界だってある、ということまで、この本は射程に入れているのだろうか?

衝撃的な書き出し以降は、ベンサムの功利主義など、近代西洋哲学の基礎となる先人たちの学説が説明されていく。
「正義」を切り口として。
それは、おそらく、とてもおもしろいころだろう。
しかしおもう。
かれらは、「正義」のみをかれら自身の哲学の対象としてきたのだろうか?
生きていくのであれば考えざるを得ない「正義」ではあるが、しかし、それのみで生活は成り立たず、哲学は論じきれず、人生は乗りきれない。
本書ではそのことには最終的に触れられない。
ここで西洋哲学を理解するための切り口として「正義」を持ち出しているというアメリカ的思考に、ややうんざりするのだ。
いやこれはアメリカという国の中の学府でおこなわえる講義なのだから、それでよいのだと考えることもできるだろう。
が、これを他国語で読む身とするならば、アメリカという国を超えた視点を、些少でよいから示してほしいと思ってしまう。

しかし、それらの点をすべて保留にしてでも、知的ゲームとしての本書には高い価値がある
ただ、それは本書に書かれていることを鵜呑みにして納得することではなく、言及されている。原著にまで手を伸ばし、自分の頭で思考して理解することを最終目的とする知的ゲームだ。
本書に限らず、どの本でもそうなのだろうけれど。
読むだけではだめなのだ。考えるのも決めるのも、最終的には自分なのだ。
読むだけで満足するタイプの人には、ただ刺激的な文字を追うだけの本に終わるだろう。

ついでいいうと、近代哲学を学ぶなら、最初から原著に触らせるタイプの講義のほうが、自力で考える、という場所には、早くたどり着けると思う。それらの膨大な知識の中から、「正義」に限らず、興味のある切り口で、いくつもの哲学者の考えを切り取っていけばよいのだから。

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渡部直己『私学的、あまりに私学的な』
 渡部直己『私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる小説・批評・思想ガイド』ひつじ書房、2010.7、513p、2300-


本書の使用法
「文学教育」について私の行っている二、三の事柄

1年次「基礎演習」
 「名言」のモダニティー
  我日ニ我身ヲ三省ス(孔子)/読書百遍義自ら見はる(『魏略』)/
  自然に還れ(ジャン=ジャック・ルソー)/
  人民の人民による人民のための政治(リンカーン)/
  馬鹿とは結論づけたがることだ(フローベール)/
  正しく見るには二度見よ。美しく見るには一度しか見るな。(アミエル)/
  天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云へり(福沢諭吉)/
  ファシズムとは、何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるものだ。(ロラン・バルト)/
  美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。(小林秀雄)
 現代思想はここが出る
  ソシュール/ニーチェ/サルトル/フロイト/ベルクソン/フーリエ
 出来れば「優」を取りたい人のための「十戒」

2年次「テクスト論」「ジャーナリズム演習」「文芸批評理論」
 『蹴りたい背中』の技術水準
 「天下の朝日」にこう書くと読者はこう怒る
 禁語録
 マドンナはなぜ憎まれないのか? 『坊っちゃん』読解
 犯罪としての話法 谷崎潤一郎の推理小説
 チャリティー文学に唾せよ! 一九八九年前後の村上春樹

3・4年次「テキスト読解・批評ゼミ」
 「直くたくましき性」について 上田秋成と中上健次
 フランボワイヤン様式の小火 中原昌也小論
 存在の発生論的な歯ぎしりにむけて 川上未映子小論
 「馬鹿」の二人連れ フローベール、ベケット、大江健三郎
 「筆耕」たちのさだめ ゴーゴリー、メルヴェル、フローベール
 「演技」と「仮装」のあいだ 後藤明生『笑い地獄』に寄せて

大学院「現代文芸研究指導」
 死ンデモ余ハ感ジテ見セル 谷崎潤一郎の「家庭」小説

あとがき
巻末付録 必読リスト小説編、批評編 主要自著自解

帯:市川真人

「早稲田大学文学学術院講義ネタ帖」を帯に謳う本書は、1989年から2009年くらいまで、雑誌や共著、文庫解説に書かれた文章や講演録の集成。後藤明生論のみ書き下ろし(たぶん)。収録された年代の幅が広いことが、よくも働き、悪くも働いている印象。
18歳から20歳までに、右も左もわからぬままいきなりフーコー、ソシュール、フーリエ、ニーチェ、デリダ、チョムスキーなどなどを叩き込まれた脳みそが、15年を経て知的遊戯の快感に溺れる。正直タイトルがよくわからないのだが、「出る」教養を、思考や研究の基礎として叩き込むカリキュラムは、国公立大も同じだと思う。私学、というのは私大とかそういう意味でなく、自学、に似た意味なのかと愚考してみたりする。

帯にネタ帖とあるからといって、レポートの点取れるかも!と付け焼刃に読んでも、たぶんそのレポートに直接影響することはあまりないと思う。あくまでこれは「ガイド」であって、そこに紹介されているオリジナルに手を染め、その世界と思考に浸からない限りは、自身の「ネタ」になることはないのだ。

ていうか、ほんとこの人村上春樹嫌いなんだなあw
嫌いで有名だけど、嫌い嫌いも好きのうち、と噂されていることを自覚しているところもなんともまた。
笙野頼子は『太陽の巫女』にしか反応できないわたしには、川上未映子はかなり難題。わたくし率〜は苦痛のうちに読了し、苦痛すぎて感想書いてない。でも『金毘羅』は読むかなあ、笙野だしなあ。

気の狂った帯にも、一見の価値あり。読めねーよ!

2010.7購入

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塚谷裕一『異界の花』
塚谷裕一『異界の花 ものがたり植物図鑑』
マガジンハウス、1996.7、216p、1600-

無季・春
コインロッカーのブーゲンビリア―村上龍
伐られたガジュマル―安達征一郎
コウゾ先生―筒井康隆
トロビズメン―内田百間
正月の梅―夏目漱石
わさびの花咲く―井伏鱒二
樹上の菫―川端康成
唇草―岡本かの子
牡丹の墓―三島由紀夫

初夏・夏
マロニエとパリと―岡本かの子
杜若の役目―三島由紀夫
みちのくのしのぶもじずり―深沢七郎
トンネルの石斛―横光利一
白百合―北原白秋
戦後の松葉牡丹―林芙美子
夏の稲―志賀直哉
酔芙蓉のしくみ―倉橋由美子
南の島の夜の浜木綿―島尾敏雄
南洋の夾竹桃―中島敦
煙草の木―宮沢賢治

山の夏・初秋
お花畑のクルマユリ―倉橋由美子
虫取り菫のたとえ―芥川龍之介
毒薬トリカブト―倉橋由美子
ササの花の咲くとき―開高健
梅鉢草の見分け方―泉鏡花
白い桔梗と美女の霊―泉鏡花
ごんごんごまの本名―泉鏡花
秋山のつるりんどう―泉鏡花
スズメノヒエと小えびの卵―井伏鱒二

秋・冬
ホオズキの怪―泉鏡花
野菊の季節―伊藤左千夫・倉田百三
シュウカイドウの庭に―永井荷風
紫苑の怨―石川淳
菊の精―内田百間『菊』と『かざしの姫君』
ムラサキシキブの記念―庄野潤三
青桐のしるし―木崎さと子
山茶花の童謡―夏目漱石
大正の頃の洋花―寺田寅彦
十二月のダリヤ―山崎豊子
鏡花えがく栃の実〜あとがきにかえて〜

植物・植物用語解説
掲載作品著者索引




文学作品中に現れるさまざまな植物を同定し、そこから作中の季節や場所を類推したり、場合によってはその齟齬をこっそり指摘したり、または作品と、取り上げられた植物との稀な邂逅を愛でたり。
取り上げている作品も、メジャーどころからマニアックなものまで。ひとつひとつが数ページずつなので、日々の細切れ読みにもいいかもしれない。
個人的には倉橋由美子がいくつか入っててよかった。「衒学的」って、うん、その通りなんだけどw

ちなみにわたしは、栃の実といえば『モチモチの木』です。

20100702借
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蛭川立『彼岸の時間』
蛭川立『彼岸の時間 〈意識〉の人類学』春秋社、
初版2002.11、新装版2009.5、300p、2500-

はじめに
プロローグ―アヤワスカの宴
第一部  反転する時間―シャーマニズム的リアリティ
 第1章 他界への旅―アマゾンのシャーマニズムと臨死体験
第二部 循環する時間―共同体的リアリティ
 第2章 象徴としての世界―バリ島民の儀礼と世界観
 第3章 穢れた女の聖なる力―インド世界とタントリズムの思考
 第4章 巫女という対抗文化―沖縄の民間信仰をめぐる権力構造
 第5章 ルサンチマンと権力―タイの仏教とシャーマニズム
第三部  消滅する時間―瞑想的リアリティ
 第6章 〈自我〉という虚構―インド-チベットの瞑想哲学
 第7章 転生するのは誰か―「霊魂の死後存続」をめぐる論争
 第8章 非局所的な宇宙―旧ソ連圏における認識論的政治学
第四部  前進する時間―資本主義的リアリティ
 第9章 理性と逸脱―ミクロネシアのドラッグカルチャー
 第10章 聖なる狂気―沖縄シャーマンの巫病は「精神病」か?
 第11章 原始の復権―色好み日本人とネオ・シャーマニズム
 第12章 労働・貨幣・欲望―グローバル化する資本主義と〈南〉の社会
第五部  明滅する時間―ポストモダン的リアリティに向けて
 第13章 回帰でもなく超越でもなく
     ―アマゾン的未来の可能性・日本的未来の可能性
あとがき
新装版に寄せて

索引

-----------
読み物として読むにはおもしろいが、それ以上のことはない。
「意識」というものが、本人以外には結局享有され得ないもの
だからこそ、人間はことばを尽くし、儀礼の体裁を整え、
その上に文化を築いてきたのであって、そのことを後づけで
「意識」下の話にされてもなあ、と思う。
あと、部に分かれているのに章番号が通し、っていうのは
一般的なことなのかな。なんか違和感。


20090623購入、0818下書き
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松園万亀雄編『性と出会う』
松園万亀雄責任編集『性と出会う―人類学者の見る、聞く、語る』
講談社、1996.2、282p、1700-

松園万亀雄/須藤健一/菅原和孝/栗田博之/棚橋訓/山際寿一

序論  性研究は何をめざすか
    「縦横人類学」と性の語り
    欧米人類学のなかの「性」
    日本では性をどう扱ってきたか
    フィールドワークの困難さ
    「性の此岸」を人類学的課題に
Part1 体位
    女性中心のオセアニア社会
    欧米流のバックスタイルはよくない体位
    固有の体位と外来の体位
    日本の男はおとなしい性
    「男が女を食いつくす」性
    夫婦はどこで性交するか
    人間と動物を分けるもの
    妊娠時の性交で双子が
    処女性に価値はあるか
    クックのパーフェクトな性
    カメとニワトリ
    若い男女のセックスゲーム
    性交過多で「眠りについたペニス」
Part2 前戯
    ある猥談の発端
    ラトロンガ流前戯作法
    前戯は人間に特殊な行為か
    前戯のない社会の性交
    ヘアピンをした女には性欲が萎える
    「ペニスチェック」の儀式
    男女差別の極端な社会の性
    性的能力が男の価値を決める社会
    クリトリスのない女性の快感
    乳房には無関心
    なぜ性器変工をするのか
    地域が変われば、猥談の中身も変わる
    「このひとまるでアヒルだわ」
    「あの男は、オンドリなみだ」
    クックの「パブリック・プライバシー」
Part3 婚外性交
    「私たち心臓の血が出会った」
    キーワードは「放っておく」
    名ダンサー、カローハの場合
    ダンスに興奮する女性たち
    「クシャミ薬の儀式」
    姦通が発覚すれば破産する社会
    愛人関係を隠すとみんな死に絶える
    姦通をめぐる暴力沙汰
    ザークの根底に見えるもの
    ハームレスピープルの素顔
    不妊男が公認する妻の姦通
    夫は妻の姉妹と、妻は夫の兄弟と
    流動的な社会での恋人関係
    ある愛妻家の物語
    妻に姦通された愛妻家の憂鬱
    ブッシュマン流の問題解決法
Part4 性的挑発
    「お医者さんごっこ」と大人の反応
    女のやさしさとこわさ
    性欲なき男社会の「低エネルギーシステム」
    性否定社会での姦通事件
    初回から荒れ模様の姦通裁判
    次第に明らかにされる真相
    姦通男をこらしめるための喧嘩作法
    ふしだらな妻をもった男の困惑
    男たちの媚薬願望
    女が男を挑発する究極の極意
    ミクロネシアの秘伝「惚れ薬」
    女たちの「猥歌」と男たちの「バナナ踊り」
    日本語まじりの歌にこめられた女の気持ち
    タヒチの夜ばいとプカプカの夜ばい
    夜ばいに遭遇した人類学者
    昼と夜で一変する女たち
    「女護ヶ島」の男性観
コラム ヒトの性はサルとどこが違うのか
    フェラチオはヒトの専売特許か
    性ホルモン支配からの逸脱
    二種類ある類人猿の性行動
    ヒトはなぜ日常的に性を営むのか
    遊びの快楽と性の快楽
    社会を作ったヒトの性交渉
Part5 同性愛
    「女」は危険な存在である
    「フルート」の守護者
    精液中心主義社会
    夫婦間の性交は必要最小限に
    「少年妻」
    「これは悪魔の教えである」
    「聖なるフルートを吹く」
    子孫繁栄につながる同性愛
    儀礼的同性愛と性欲
    「女写し」と「マフ」
    同性愛の二つの流れ
    男女対立の構図の背後にあるもの
    ファスの女の一生
    好きあった男女の問題
Part6 獣姦
    獣姦のための物理的前提
    ある裁判の記録
    動物のランキング
    新参の動物ほど劣等 
    獣姦するのは男性だけか
    マスターベーションとの関係
    獣姦は性の代替物か
    人間と獣姦の歴史
    代理夫への謝礼
    女が女を娶る女性婚
    女性婚にも「離婚」がある
    「冗談関係」と「忌避関係」
    親子の忌避関係
    常識ではわからない性の世界
あとがき
-----------
目次書き過ぎ?(笑
ここでの性現象とは、性器結合もしくはその代替行為、
およびそこにいたる過程とその結果に関連する社会文化現象、
という前提のもとの、ちょー真面目な対談集。
オセアニアとアフリカを中心に、それぞれにフィールドでの
見聞から話題を披露して、それにコメントしあう形式で。

それぞれの社会でなにが「性的」かは事前にはわからないこと、
また性とは激しく個人的な営みでもあること、などへの配慮もさすが。
10年ちょっと前にこれかー、という感嘆する気持ち。
その後、これほど水際立った学際研究はあるのかな(笑。
残念ながら、性が此岸にある状態は、未だ続いている気がするな。
巻末の顔写真、みんな若いなー、当然だけどなー(笑。

20090415借
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矢川澄子『「父の娘」たち』
矢川澄子『「父の娘」たち ―森茉莉とアナイス・ニン―』
新潮社、1997.7、215p、1600-

機鷗外の娘
  至福の晩年
  その「微笑(わら)ひ」をこそ
  「蜜の文学」の成立
  犀星と茉莉
  茉莉さんの常食・茉莉さんの写真
  卯歳の娘たち
  対談 父と娘の深い恋愛

供.皀ぅ蕕肇▲淵ぅ
  〈神〉としての日記
  ほんとう?の児童文学
  「父の娘」さまざま 
  お友達はダイナマイト
  熱風(シロッコ)の吹きやむまで

付 恢復期としての生
  ふたりの翠(みどり)をめぐって
  「わたしひとりの部屋」から
  「わたしひとりの部屋」以後
  早すぎ、長すぎた生

あとがき


生涯、ある偉大なふたりの父の娘として生きた、
1930年生まれのふたりの女性に関する評論とかエッセイとか集。

森茉莉が父鷗外とともに過ごした時間は人生の約4分の1だが、
かの女はその父の面影を繰り返し語って倦むことがなかった。
早熟で、早世で、医師として学者として作家として、
かくも正しい明治の偉人であった鷗外の文学とは対照的に
茉莉は54歳で文壇にデビューし、代表作を書き上げたときには
72歳になっていた。80を過ぎて逝去するまでにかの女が書いた
その作品の特徴を一言でいうなら、それは頽廃。
「絶頂からはじまってあとは爛熟へと、ひたすらに下降線をたどり
凋落の一途をたどるこの道程は、ことばの本来の意味での
デカダンスの名にまさしく価する」。(11.17-12.1)
その「高等遊民」としての茉莉のあり方に及ぼされた、
鷗外の存在と影響を、茉莉と親交があったこともフルに活かして
考察していく、いわば、茉莉側から見た鷗外論。

いっぽうアナイスは、11歳のときから生涯日記を書き続け、
むしろその日記を刊行したことによって知られる作家である。
著名なピアニストであった父ホアキン・ニンと母が突然離別し、
経済的にもゆとりのない生活に放り込まれたアナイスが、
自分を一番身近に認めてくれるものとして書き始めた日記。
アンネ・フランクにとっての日記が友人であったように
アナイスにとっての日記は神であった。
その日記によってアナイスの男性遍歴、さらにはホアキンとの
邂逅と交歓をすら、われわれは知ることができる。
その人生の中での、自身の魂の先鋭化。

森の中の蜜したたる楽園に、父によって保護された茉莉と、
アフリカから吹く熱い季節風の街に取り残されたアナイスと。
「すべては風のなせるわざだったのか?」(155.13)という問いと。

付の野上彌生子、尾崎翠、野溝七生子論が秀逸。
家父長的文学論によらない、女性作家論はもっとkwsk(笑。
「少女―老女予備軍としての
 老女―少女後遺症としての」(172.8-9)
なんていう少女感覚にはしびれますね。

20090415借
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佐藤稔『読みにくい名前はなぜ増えたか』
佐藤稔『読みにくい名前はなぜ増えたか』歴史文化ライブラリー236、
吉川弘文館、2007.8.1、193p

変わってゆく名前−プロローグ
「名づけ」と「名前」
 「名づけ」とは何か/「名づけ」の由来
名の用語と意味
 さまざまな名前/名前と日本人
「名乗り字」と「名乗り訓」とそれからの逸脱
 「名乗り字」と「名乗り訓」とは/逸脱していく名前
日本語と名前の行方−エピローグ



「そもそも読みにくい名前は、日本語を書記する文字として漢字を使い出した当初から宿命として存在したし、過去の文献に現れる名前を自信を持って読めない事情は、ほぼ一貫して存在したと思われる。読むのに不安を抱いた場合の方策として採られてきたのが、名を字音読みするという手段であったが、(中略)重宝といえば重宝この上ない便法であった。
ところが昨今の名前の漢字表記は、この字音読みという「逃げ」を許さない読みにくさを生じさせているということで、突出したものとなりつつある。」(189.8-15)
「声に出して読めない名前の現状と来歴について、漢字表記あるいは音訓と絡めて眺めてみよう」(188.6-7)という意図のもとで編まれた快著。
「おそらく、漢字表記とそれによって導き出されるはずの読み方との関係が、ふだんの漢字教育で身につけたものと乖離していることに原因があるのではないか」(12.13-15)という着眼点から、文化の問題として名づけの漢字の用い方を考察しようとしている。

まず、上代における氏、姓、仮名、実名の相違と、歴史的変遷を概観しつつ、歴史史料から抜き出した人名から、その当時の傾向と、社会階層における差異を見てみる。さらに「名乗り字」と「名乗り訓」の過去のサンプルと、最近の名づけのサンプルを比較して、漢字の音訓が伝統的なそれから大きく逸脱する方向にあることを確認する。

名乗り字とは、公家や武家が元服する際につける「実名」に用いられる漢字のことで、例えば「光」を「あり」、「親」を「ちか」と読んだりする名乗り字特有の訓も多く含まれることが特徴である。名乗り訓は、名乗り字の、名乗り特有の訓のことである。

名乗り字は平安後期から書物にまとめられるようになり、江戸期には庶民向けの書籍も多く出版され、その一部は明治になってからも再版、増補され、現在の名づけ本に至る。おもしろいのは、名乗り字について、江戸期に既に占術化が始まっていること。ただ、池永禎造(1947)によれば中古中世の名乗り字がいかに使われていたかの実際は推定するしかない(その漢字をどう読んでいたかはわからない)という側面もあり、名前に用いる文字の歴史的な性格というものの研究は、あまり進んでいないのが現状でもある。

名乗り訓を考えるには、訓読みとは何かということから考え始めなければならない。
訓読みとは、現在のわれわれに認識されている範囲よりも、
より広い字義を捉えることが可能な方法であった。漢字漢文を読むということは、単純に限定的、固定的な語形として読み下すということではなく、その文脈に最もふさわしい日本語で翻訳するという行為であったため、多彩な訓の存在が許されていたのである(例については132-133参照)。
「その幅広い訓のあり方が、名乗りの分野では「名乗り訓」として訓を発達させ、他の領域では漢文訓読形式の固定化とともにその訓の多様性が狭まるようになった」(133.15-134.2)わけである。

つまり、名乗り訓は最初から特殊なものとして生み出されたものではなく、多様な字義を読み分けるための工夫として形成されたものであるということだ。しかし、時を経てその字義が薄れ、「この漢字をなぜこんなふうに読むんだろう…」という状況が出来するわけである(本居宣長も悩んでいたらしい)。

さて翻って現代の状況を考える。ここで使用されるのは、ある地方の町の「広報」の「おたんじょうおめでとう」コーナー1年半分(1995-1998)。比較として挙げられているのが、同じ町の「広報」掲載された、1946年度誕生の人たちが2006年に還暦祝賀会を開催した際の名簿である。
還暦名簿の人名は「読めない」、というものは極めて少なく、漢字も平易なものが多い。終戦から間がない時期で、命名に凝っている余裕がないという時代も反映しているのだろう。
対して新生児名には、音や訓の一部を省略したり、少しムリな当て方をしているものが目につく(さほどDQNなものは見あたらないが、それでも)。さらに止め字の多様化が指摘される。

戦後に限って傾向を見ると、大きく以下の6つの用法に分けられる。
1、2は日本語表記の世界では古くから見える現象である(166)。

1 漢字本来の音より、環境で有声化した音を採用:晋司(しんじ)、幸史(こうじ)
2 漢字本来の音形の一部を用いる:裕美子(ゆみこ)、玲桜(れお)
3 漢字のイメージ/意味を現行の音訓に関係なく採用:颯(はやて)、瞳里(みさと)
4 熟字を現行の音訓を無視して採用:永遠(とわ)、夢翔(ゆうと)
5 漢字と対応する外国語の音形を採用:月菜(るな)
6 訓の一部を用いる:萌奈(もな)、渚月(なつ)
…後半に近づくにつれDQN度がアップしてゆくな(笑。

著者は、37年間の教員経験を踏まえ「反発を覚悟の上で言えば」と前置きした上で「それは親の教養、ないしは彼らが属している階層・環境による。伝統的な文化にさして違和を覚えず、従来通りの文化を享受することのできる、保守的富裕層と、自分の居場所を模索し、価値観に「個性的」というマークを刻印せずにはおれない新興勢力の層とは、分極化が著しい」(184.2-6)と述べる。
うおー、怖ー(笑。うん、確かに親の教養がかいま見えるとは思う。
そしてエピローグに2006年の地方紙の新生児名を列挙し、その混迷ぶりがむしろ加速していることを確認し、取るべき手だてを2つ挙げる(186)。

1 音訓の制限を明確に設定すること
2 総ルビを強力に推進すること(ただし「個性派」の跋扈跳梁は加速する可能性あり)

いずれにせよ、この問題は、ただ「読みにくい」名前の問題ひとつに留まらない。「固有名の表記についてまわる特殊な現象ではあるが、この領域に無関心でいることは、現代の漢字使用に大きな領分を占めている表記と音訓の関係の新たな展開に目をふさぐことになる。」(181.1-3)
「「名乗り字」の範囲を逸脱した新たな訓の創出や誤解に基づく字音の使用については、十分な注意が向けられているとは言えない。創出や使用の実態の把握と、その背後にある人間の心理の解明に、専門家だけに限らず、名前に関心を寄せるすべての人によって、論議が深められることを期待したい。」(181.4-8)と述べる。
なぜならこれは、日本語をどうするかという根本に関わる問題であり、それだけの困難な局面に、今われわれは立っているからである。

人名を含む漢字表記の音読の難しさは、日本語という言語の特徴から見て不可避であり、且つそれが歴史的なものであるということを認識しつつ、特に最近(著者的には戦後50年くらいから、という意識のようなので90年代後半からてことは、ここ10年強ってとこ?)の、命名における音訓の任意的使用や字義の誤用には、命名の分野のみにすまされない問題が内在されているとし、複数の視点からの研究が望まれる、という主旨。たぶん。

まあ、「なぜ増えたのか」って問いに対する答えは、あまり明確じゃないと思うんだけど(笑。

概要と感想をごっちゃにして書いちゃった。
細かいこというと、「遊女の存在は奈良時代の文献に見え、昭和三十二年(一九五七)まで続いた。」(101.10)などの、歴史性を無視した、通説の無批判な使用など、一部気になる部分もあるけど。奈良時代から昭和までって。。(笑

しかし「他国の歴史や文化的伝統を十分に知らない場合、こちら側の気づいた項目一つ一つがすぐさま「特色」のように感じられてしまう。しかし他国側のありようについて知識の総量が増えていけば、こちら側の今まで特色と考えてきたものが特色とは呼べないありふれた傾向の一つに格下げされるということが多くなる。」(103.4-7)という視点は慧眼。
特にこの分野の研究者で、こういうことに思いが至ってる人って尊敬しちゃう。

あー長くなっちった。新聞の書評は書けないな(笑。

20080903借
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池上禎造『漢語研究の構想』(岩波書店、1984)上記論文は「国語国文」1947.10月号
円満字二郎『人名用漢字の戦後史』(岩波新書、2005)
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デビッド・フリードマン『ペニスの歴史』
デビッド・フリードマン著、井上廣美訳
『ペニスの歴史 男の神話の物語』
原題:A Mind of Its Own - A Cultural History of the Penis
原書房、2004.11、424p、2800-

第一章 悪魔の杖 キリスト教が生んだ神話
第二章 シフトレバー 啓蒙の時代が生んだ神話
第三章 ものさし 「黒いペニス」という神話
第四章 葉巻 フロイトが生んだ神話
第五章 破城槌 フェミニズムの時代の神話
第六章 割れない風船 勃起産業と新たな神話


ペニスをめぐる文化史。
主に西欧の人間(というか男性)が、その、おのが器官を
いかに理解し、受け入れ/受け入れられず、自文化による意味を付与し、
それにとらわれ、迷妄の時代を過ごしてきたか(笑。
みなさん苦労なさってきたのねえ(笑。
そうか、興奮したときに腎から吹く風が勃起の原因か…
まったく意味不明でコントロール不能だった器官は、20世紀後半に
ようやくそのメカニズムを明らかにされ、結果薬物によって自在に
扱える部分となった。
コントロール可能な肉体としての器官に貶められても、
文化による過剰な意味づけは今も健在。
結局かれらは、なんらかの文化バイアスを通さないと、その器官について
考えることも、受け入れることもできないらしい。
今も昔も、そこには神話のヴェールが厚く垂れ下がっている。

ペニスだけではなく、睾丸や前立腺も含めた男性生殖器全般に
言及されることも多く、そこんとこ、もう少し自覚的に区別してほしかったな。
おそらく、射精する器官であるところのペニス、というものが
重要なのだろうけど、そこと勃起することとの関連もちょっと曖昧。
表象としては勃起=射精ではないようにも思うんだけど、
この点については個人的に要検討。

20080610借
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氏家幹人『江戸の女の底力』
氏家幹人『江戸の女の底力 大奥随筆』
世界文化社、271p、1700-

お手本は奥女中
壁を越える女たち
男子禁制?
老女力
哀しい姫君
奥様は卒業生


「くせ者じゃ、出会えい!」という勇ましいかけ声の下、
長鉢巻きにたすきがけ、薙刀を抱えて廊下に走り出る奥女中、
という描かれ方の、時代劇でのかの女らだが、
実際どうだったのよ? というのを、史料を渉猟して具体像を
描いてみようという試み。
大奥という場所の特殊性からか、書き残されているものは
極端に少なく、場所と時代がひじょうに制限されてはいるが、
描き出されるその像は意外なもの。
全然外には開かれているし、けっこう人の出入りはあるし、
ちっこい子どもだったら男子でもお泊まりできたし、
奉公している人たちの状況はぴんきりみたいだったけど、
大奥での子育て風景はちょー恐怖。
あの夭折の多さはやっぱりちょっとおかしいんだー。ひー。

なかなかおもしろく読みました。

20080523借
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小谷野敦『日本売春史』
小谷野敦『日本売春史 遊行女婦からソープランドまで』
新潮選書、2007.9初版、2007.11第4刷、
234p、1100-

まえがき
第一章 売春に起源はあるのか
第二章 古代の遊女は巫女が起源か
第三章 遊女論争-網野善彦による「密輸入」
第四章 「聖なる性」論の起源
第五章 中世の遊女と網野史学
第六章 近世の遊女史
第七章 岡場所、地方遊郭、飯盛女
第八章 日本近代の売春-廃娼運動と自由恋愛
第九章 現代日本にも存在する売春
    -カフェ、赤線、ソープランド
あとがき
関連年表
参考文献
索引


「その昔、娼婦は聖なる職業だったなんて大ウソ!」という
帯に惹かれて買ってみる。
小谷野の著書を読んでると、「あ、もてない人ね」と
声をかけられるな(笑。
『江戸幻想批判』(1999)はけっこうよかったので、
それがパワーアップした本書はうれしい。

古代、中世、近世一部遊郭なのにおける遊女≒娼婦が
聖性を帯びた存在である、という一部認識を、
そんなわけあるか、とこれでもかと史料を出して否定にかかる、
その手段は学術的で評論的で、ある意味ほれぼれ。
そしてそれら「遊女の聖性」論が、近代以降に持ち越されず、
廃娼運動後も、売春防止法制定後も厳然としてある
売春、また売春婦というものが議論の対象にならないことに対する
疑問と憤りが後半の主張。

「恋愛弱者」である人々への必要悪としての売春の肯定、が
主張されるあたり、さすが「もてない男」だな(笑。
でも確かに「負け犬」論争にも取りこぼれるような、
「恋愛弱者」の視点って必要だと思う。

小谷野のこれまでの著書の中では、いちばんよかったという感想。
それから、網野史学の評価と批判って、
もっと真剣にやらんといかんよね。
でもそういうのって、ロマン主義と相まって、
別の分野で再生産されちゃうあたりがやっかいよなあ。

2007.12購入
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